History 経歴
1942年
東京、代々木に生まれる
1945年 空襲そして疎開
5月の東京大空襲に遭遇し、焼夷弾の嵐の中、命からがら東京を脱出。大阪の枚方市にあった母親の実家に疎開がてら移住する。6歳からピアノを習い始めるが、練習が嫌いで逃げ回っていた記憶がある。
その後、再び東京へ引っ越すなど、環境の変化により音楽とは一旦距離をおくことになる。
1955年 クラシック音楽への目覚め
中学2年のとき、同級生の友人の影響でクラシック音楽を好んで聴くようになる。月に1、2回の割合でコンサート会場に足を運ぶが、聴くだけでは飽き足らず、チェロを演奏することへの憧れが膨らむ。
1958年 早稲田大学高等学院に進学
当時は唯一の附属高校であった早稲田大学高等学院に進学。入学時の夢は建築家になることであった。趣味のつもりで念願のチェロも始めたが、その魅力に取り憑かれ、あっさり建築家の夢を捨て、高校2年の秋にチェリストになることを決意。芸大チェロ科の小沢弘教授の門をたたく。
チェロにのめり込めば込むほど成績は下がり、3年進学時に担任の教諭から、このままでは単位不足で留年必至であるが、他大学に進むなら卒業証明書を出すから頑張れ、と言われる。その言葉に勇気百倍、芸大の受験勉強に精を出す。
1960年 東京芸術大学入学
首尾良くストレートで東京芸術大学・音楽学部・器楽科に入学、チェロを専攻。音楽漬けの日々が始まる。作曲と指揮にも魅力を感じ、特に作曲は本格的に作品を書きたいと思うようになり、時間を見つけては書き溜め、1年の学園祭で処女作を発表する。徐々に作曲にウェイトがかかり、作曲家になりたいと思うようになる。しかし純音楽の作曲家では食っていけない。また、アカデミックな作曲界のありかたや無調音楽に疑問を抱いてもいた。
1963年 山本直純に弟子入り
かねてから興味のあった映画音楽やテレビ・ドラマの音楽など、商業音楽の世界で当代随一の売れっ子であった山本直純氏の門をたたく。
電話で弟子になりたいことを直純先生に伝えると、翌日に会ってくださるという。指定されたのは、当時麹町にあった日本テレビの前の「ローリエ」というレストラン。先生に会うなり開口一番、「仕事を覚えたいのか、金を稼ぎたいのかどっちだ?」と訊かれる。「両方です!」と勢いよく答える。「分かった、マネージャーからスケジュールを教えてもらって明日から仕事場へ来い」と、弟子入りを許された。芸大は3年で中退。
1963年~1967年 修行の日々
最初はカバン持ち、使い走り、電話番などの雑用から始め、写譜を手伝ったりしながら、徐々にアレンジやミキシング・バランスのチェック等、実質的な仕事を手伝うようになる。弟子はアシスタントと呼ばれ、クライアントとの打合せから、作曲、レコーディングに至るまでのプロセスを同行し、師匠をサポートする。4年半にわたるアシスタント生活の間に、さまざまなジャンルの商業音楽の仕事を経験、また音楽的なことに限らず、ビジネスの進め方などについても徹底的な訓練を受ける。
1965年 作曲家デビュー
箏奏者の野坂恵子さんから委嘱され、「箏と室内オーケストラのための小協奏曲」を作曲。上野文化会館小ホールで行われた「野坂恵子リサイタル」において、自身の指揮で初演、作曲家デビューを果たす。
また、アシスタントを務めながら、テレビ・ドラマ、CM等の作曲活動を開始。
1967年 独立
1965年からテレビCMの音楽を主たる仕事として生活していたが、1968年に初めて連続テレビ・ドラマの音楽を担当、NTV(日本テレビ)の「おじゃまさま」であった。翌'69年にはNTV「愛の夜明け」、「90日の恋」と続けて連続ドラマを担当する。「愛の夜明け」の演出はNTVの若手演出家の石橋 冠氏であった。その後の石橋氏のドラマ作品の大半の音楽を担当していくことになるが、その過程で自分の音楽が社会的に広く認知されていくようになった。仕事上の大恩人と言えば山本直純氏であるが、石橋 冠氏は第二の恩人である
1972年 ヒット曲誕生
NTV連続テレビ・ドラマ「3丁目4番地」の主題歌「さよならをするために」がヒットし、オリコン・チャートで4週連続トップを記録する。民放ドラマの主題歌でありながらその年のNHK 「紅白歌合戦」にビリーバンバンが「さよならをするために」で出場した。
翌年へかけて放映された「冬物語」の主題歌はベスト10入りを果たせず、16位が最高位であったが、日本のメロ・ドラマに新風を吹き込んだとの評価を得る。しかしながら、当時の映像も音楽も全く現存しておらず、見ることも聴くこともできないのは残念なことである。
1974年 音楽の溜め録り-不幸な時代の始まり
翌年にかけて放映されたMBS「華麗なる一族」で、劇判の溜め取りなるシステムを体験する。
本来であれば、連続ドラマであれ帯びドラマであれ週ごとに打合せ・作曲・録音を行うのであるが、溜め取りとは、単発ドラマ以外のドラマのコスト・ダウンのために、前もって予測をもとに数週分、あるいは1クール相当分の音楽を作曲・録音しておき、それをライブラリーとし、完成したドラマの音楽として適すると思えるものを選曲、使用するというものである。このやり方では、場合によっては適した音楽が見つからず、ドラマにとって不的確なものを使用されてしまうことがある。更に作曲者の意図を選曲作業に反映させてもらうことも出来ないので、音楽担当者にとっては不満足な結果に終わることも多く、ドラマそのものの質の低下にもつながるものである。以前からテレビ映画を下請け制作していた映画会社が始めたシステムであったが、瞬く間に民放キー局全てがこれに倣うようになる。
連続ドラマでは、作曲家は緻密で効果的かつ個性的な仕事が出来にくくなっていった。作曲家にとってもテレビ・ドラマにとっても不幸な時代に突入した。
1974年 NHKの連続ドラマを初担当
民放ドラマでの活躍がNHKの演出家、北嶋 隆氏の目にとまり、NHKでは初の連続ドラマの音楽を担当することになる。後の「朝の連続テレビ小説『おしん』」、「大河ドラマ『女太閤記』」も、北嶋 隆氏がチーフ・ディレクターである。
1976年 初のアニメーション音楽担当
CX(フジテレビ)放映のテレビ・アニメーション「母をたずねて三千里」の音楽を担当する。主人公のマルコ少年がアルゼンチンからアンデスまで母親を探し訪ねて旅をすることから、主題歌では南米特有のリズム「ミロンガ」やアンデスのリズム「カルナヴァリート」、民族楽器のケーナ、チャランゴ、ボンボ等を効果的に使用し、印象的な作品となった。劇判は溜め取りであったが、ストーリーが展開していくのに従って2回ほど音楽録音が行われた。
1981年 大河ドラマ初担当、そして「もしもピアノが弾けたなら」のヒット
NHK大河ドラマの「女太閤記」を担当する。大河ドラマではテーマをNHK交響楽団が演奏することになっており、通常の仕事ではあまり機会のないフル・オーケストラでスコアが書けるのはうれしいことであった。 このドラマで佐久間良子と共に主役であった西田敏行は、同年4月からのNTV放映の「池中玄太80キロ」でも主役であり、彼が歌う主題歌「もしもピアノが弾けたなら」がヒットするなど、西田氏と縁の深い年であった。この曲で西田氏は初めて歌手として「紅白歌合戦」に出場した。
1983年 NHK「おしん」
NHK朝の連続テレビ小説「おしん」を担当する。テーマ音楽には、おしんの哀しさと力強さ(前進力を持った芯の強さ)、おしんを応援するニュアンスを込めた。 このドラマは「おしんシンドローム」なる社会現象を引き起こし、平均視聴率は52.6%、最高視聴率は62.9%という、日本のテレビ・ドラマ史上における最高視聴率記録となった。その記録はいまだに破られていない。
1984年 シリーズ「家政婦は見た」が始まる
前年に放映された松本清張原作のドラマ「熱い空気」が評判となる。単発1作で終わるのは惜しいと、「熱い空気」を下敷きに「家政婦は見た」というタイトルで、柴 英三郎の脚本でシリーズ化された。この後、年1作のペースで26回まで続くことになる。シリーズ進行途中の1997年10月から12月まで、連続ドラマ(12回)としても制作・放映される。これには市原悦子が歌う主題歌「きっと倖せ」が新たに作られた。
1985年 病院からNHKのスタジオへ
この年の9月、3年ほど前から始めた馬術の障害飛越競技の練習中に馬が転倒、一回転したために頭から突っ込み怪我を負う。8週間のベッドに仰向けで固定、計3ヶ月の入院加療を医師から宣告される。翌年の大河ドラマ「いのち」(今まで3作ほど制作された「現代大河」と称されたものの1作。ある女医の一生を描いた)を担当することが決まっていたが、責任を全うできないと判断し、降板を申し入れたが、NHKからチーフ・プロデューサー、チーフ・ディレクター以下スタッフの方々が病院まで訪ねて来られ、「降板の必要はない、病院で作曲すれば良い、主治医もOKだと言っている」と説得され、承諾。先ずはベッドに固定されたまま仰向けでテーマのスケッチを書く。その後の歩行訓練などのリハビリが始まると病室でオーケストラ・スコアを書き、11月の下旬には病院から外出許可をもらってNHKの506スタまでレコーディングに出かけた。「命」を脅かすような経験をし、その加療中に「いのち」のテーマを書いたということで、やや因縁めいたものを感じたところであった。
2000年 大学で教鞭
尚美学園大学で専任教員として教鞭をとり始める。通常の音楽大学と組織が同等の、「音楽表現学科」の「作曲コース」主任教授として作曲を教える。
三十数年間、仕事を続けてきたなかで、さまざまな仕事上の経験や実社会から得たもの、教えられたものなどを若い世代に伝えたいという思いもあっての選択であった。
専任教員の仕事というのは想像以上に、雑務やら会議やらをこなしながら、更にマネジメント能力をも求められるというものであった。そもそも上司のいる組織になど属したこともなかったので初めての体験も多く、多少困惑することがらにも出くわしたが、それはそれで面白くもあった。
2010年より音楽表現学科長として務める。
2011年 さよならの夏~コクリコ坂から~
スタジオ・ジブリのアニメーション映画「コクリコ坂から」の主題歌として、「さよならの夏」が採用された。この曲は、1976年のよみうりテレビ制作のテレビ・ドラマ「さよならの夏」の主題歌(歌唱:森山良子)として書いたものである。今回の映画のために、音楽担当の武部聡の編曲、手嶌葵の歌で新たにレコーディングされた。35年の月日を経て、再度脚光を浴びることは喜ばしいことである。
2012年 未来へ
懲りずに新たなる挑戦を開始する。これまでの商業的な世界とは距離を置き、より文化的な分野での新しい境地の開拓・創出を目指すものである。言ってみれば、私の音楽表現世界のパラダイム・シフトを目論んでいるということになる。
具体的にはまだ明らかにできないが、すでにいくつかのプロジェクトの立ち上げに参加しており、それは、ある種の文化的ムーブメントとして展開していくものであったり、他分野の学術的研究結果とのコラボレーション作品であったりするものである。